【第3章 ふたり】 第3話

それは、縄に見立て破れた衣類をカーテンレールに吊るし、そこに、自分の首をねじ込んでいる情景です。

人間は、30センチの高さがあれば、死ぬ事が出来ます。

頚動脈だけを絞めれば、実は、眠るように静かに死ぬ事が出来ます。

その事を、俊夫はもちろんの事、姫子だって知っていたはずなのに、わざわざ、少し高い所から首を吊っていました。

それはとても苦しい死に方で、実際に姫子は苦しかったはずですが、それでも、俊夫が目覚める程の小さなうめき声も無く、死んでいました。

冷たくなり始めている姫子の体の後ろには、窓があり、そこから少しずつ太陽が昇ってきます。昨夜からの雨で、それは鮮やかなものではなかったのですが・・・

朝焼けです。

それを見ながら俊夫は、西の空に沈んでいく太陽の美しさを思い出していました。幼いの頃から何度も感じた、本当に不思議な感覚で、まるで時間がどこかへ消えていってしまったような、そんな感覚のままにただ抱き続けるより他に術などありはしません。

その感覚は、いつも、朝焼けの色合いが赤から黄色に変わる頃には終わってしまうのですが、その日だけは、本当に夕焼けまで動けないままで居ました。

姫子は当然のこと、俊夫も動けないでいました。

そのまま夜になっても、動きませんでした。動かないままで居ました。

雨は上がりましたので、外は、昨日からの雨でまとわり付くような湿度の高い空気です。

俊夫はその時間帯になって、姫子の遺体から、そのほか大勢の凡庸な首を吊る人間の遺体と同じように、排泄物や吐瀉物が垂れ流されている事に気が付きました。

吐瀉物には、昨日、同じ食卓で食べたであろうものが(もう時間が経って、ほとんど原型は無いのですが)混じっています。

排泄物には、それよりも前に同じ食卓で食べたであろうものが(こちらも、さらに時間が経っているので、何も分からないのですが)混じっています。

俊夫は、それを静かに掬い取りました。

口に含んでみると、実に不思議な事に、あの日あの夜、姫子と2人食べたあの食事のような味がする気がしました。

無心。

ただ無心で、姫子の吐瀉物を掬い、啜り、舐め続けました。

排泄物も同じです。

そうやって、舐めていると、本当はもう何の感情も無い姫子ですが、それでも一緒に、いつもと同じように、同じ食卓で、夕食を食べているように感じることが出来るのでした。  

いつまでもいつまでも救い、啜り、舐め続けました。

そして、手にこびりついたものも、何だか洗い流してしまうのが勿体無いので、当たり前のように、体に塗り続けました。

ひとしきり、掬い、啜り、舐め終わると、何だか満腹感を感じ、そうして、初めて動かなくなった姫子の体を直視することが出来ました。

姫子の体はキレイでした。

いつか、姫子が「自殺ではダメだ」と言っていた事を思い出しながら、それでも、今の姫子は十二分に美しく、キレイでした。

姫子の美意識が、コレで本当に完結されたのか。それとも、不本意な形で、終焉を迎えたのかと問われれば、おそらくは後者だろうと考えつつも、それでも、姫子がキレイに見えました。

「姫子は、動かなくなってしまった。もう、姫子は笑いもしないし、怒りもしない。これからは、桶をひっくり返したような雨の日や、殴られるような風の日に、好んで2人で散歩に出かける事も出来やしない。コレが、命が止まるという事なんだなぁ。」

水の中ではなく、水の外に居たであろう姫子の事を考え、初めて、俊夫は少しだけ、生命について考えました。

「オレは、コレまで何て見当違いな事をしていたのだろう。生命を知る事なんて簡単に出来る。簡単に出来る。簡単に・・・」

そして、
「少しだけ悲しい思いをすれば簡単に・・・」
と、その場に突っ伏して、そこで初めてオイオイと泣きました。

それは、赤ん坊で生まれ出る時の、その存在を知らせる為のそれではなく、本当に心の奥から溢れては、止まる事の無い感情を外にもらす為のものでした。

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