【第2章 遠野姫子】 第2話
それは、少しだけ道と脇に段差のある道で、その段差から子どもが落ちてしまわないように、白くて冷たく、そして少しだけ太いフェンスが沿って立っています。その道の、フェンスの向こう側に、姫子はある日、息絶えた猫の死体を見つけました。猫は、死に際を親愛なる人間には絶対に見せない生き物です。だから、姫子も人生において初めて息絶えた猫の死体を目にしました。(もちろん、車でぺしゃんこの猫は何度も見た事があるわけですが。)
その日は久しぶりに、その猫が見えなくなるくらいの時間までじっとフェンスを握り座り込んだまま過ごしました。そして、猫が見えなくなると、いつもの近所のさほど遊具もない小さな公園の前を通り過ぎて、家に帰りました。
不変でないが故の美しさに近しいものを息絶えた猫の死体から少しだけ感じ取ったのです。
姫子は、猫を「カゲリ」と名付けました。
それからの毎日は、カゲリと出会うための毎日。
少しずつ少しずつカゲリが変わっていくのを、学校の帰り道には、座り込んでいつまでもいつまでも眺めているのでした。
お腹の凹凸がまずは、はっきりと見えるようになってきました。カゲリは、どこにでも居るような茶色い雑種でしたから、凹凸の部分の毛が無くなり、ピンク色の肌が出てきたのもつかの間、1週間も経たないうちに、その部分は白く剥げはじめました。さらに2日ほど経った頃に姫子は、それが骨だった事に気が付き、その美しさに、それはそれはうっとりとしてしまったのでした。
骨の奥には、どこまでもどこまでも沈みこむような黒い(今になって考えればそれは、おそらくは内臓だったのでしょうが)空間が広がっているのです。
さらに数日。
カゲリは、どんどんと白くなっていきました。
白く。
白く。
白く。
白くなるにつれ、柔らかくフカフカだったカゲリは、硬く無機質に変わっていきます。
その過程すら、姫子にとっては何よりも美しく、それは、今も引き出しの奥に大切に閉まってある、いつかの柿の種をはるかに凌駕するものでした。
「不変でないが故の美しさ」は、骨となる事で完結する。
姫子は、まるで、その場でジルバでも踊り狂いたくなるほどに喜びながら、その自らが発見した、おそらくはどこの誰だって理解などしてくれはしない、美しさの真実に酔いしれました。
実際に、カゲリは世界のどの、何よりも美しくなったのです。
「ただ、自殺ではダメだ。」
姫子は、近所のさほど遊具もない小さな公園のブランコを漕ぎながら、呟きました。
自然に事切れた美しさが、どこまでもカゲリの美を際立たせていた事を、姫子は無意識のうちに理解していたのでしょう。
そうして、姫子の、自分におけるもっともらしい美しさのために、いつか死ぬその日まで、美しさを保つだけの毎日が始まったのです。
それはもう、詰まらない毎日でした。
いつか来る、その美しい自分の事だけを妄想し、カゲリに思いを寄せて、何とかその日の夜を向かえる毎日です。
でも不思議と、もう近所のさほど遊具もない小さな公園には行かなくなっていました。
ブランコにも乗らなくなっていました。
おばあちゃんの事なんか、もうキッとどこかへ置き忘れてしまったのでしょう。
ある年の夏祭りに、姫子は何とはなしに、お気に入りの紺色の浴衣を着て出かけました。誰かに会いたいわけでも、何か目的があったわけでもなかったので、人々が、花火に酔いしれている時間帯に、花火には目もくれず、いつかのカゲリのお腹の様にどこまでもどこまでも沈み込むように暗い路地裏ばかり見ていました。
その路地裏に動く影。
どんなに暗くても見える、その目が覚めるような鮮血の中。未だ見たことも無い、それで居て、脳裏の奥深くでは、まるでデジャビュのごとく形状まで熟知している臓物にまみれた一人の青年でした。
そして、姫子は、その光景にかつてない美しさを見出したのです。