【第1章 柳井俊夫】 第1話
柳井俊夫は、平凡な中流家庭の次男として、この世に生を受けました。公務員の両親と、成績優秀な兄の背中を見て育った俊夫ではありましたが、それはどうしたって、自分とは似ても似つかぬ世界の話のようだなぁとばかり思う子ども時代を過ごしていました。
例えるなら、まるで水の中にある世界。興味を持って、手を伸ばすと、それは波紋で見えなくなってしまう。そんな世界です。
10歳になるかと言う頃、俊夫は始めて、近所の野良犬を蹴り殺しました。
後日談になるのですが、その時の事を俊夫は鍵の付いた小さな青い日記帳にインクの薄れ掛けた安物のボールペンでこう表現していました。
「犬であるからと言う理由で、ゴミをあさる事は許されないのである。事実、その数日前に、同じようにゴミ箱あさる自分は近所の姦しい年老いた老婆にホホを打たれながら叱られたのだ。人間である自分ですら、ホホを打たれたのであるのだから、いわんや、犬畜生など死に値すると考えた。そこには、疑問を挟む余地などどこにもありはしないのだ。あなたから見れば、矛盾はあるだろう。それは否定しない。ただ、自分は疑問など持ってはいやしない。悪しからず。」と。
俊夫にとって不運だったのは、たまたまその現場を同じ学校の同じ学年の同じクラスの、しかし、俊夫から見ればくだらない俗物である友人に目撃された事でした。その時に、俊夫が、犬の返り血を浴びながら、薄仄かに笑みを浮かべていた事も影響したのでしょう。
その笑みは、コレまで抑圧されてきた俊夫自身の心持を初めて俗世間に向けて発信できた事を感じて出現した、無意識の笑みではありましたが、そのくだらない友人に嬉々として、犬を蹴り殺しているかのように見えるには、十分な光景ではありました。
翌日から、その犬などとは比べ物にならないような悲しい日々が始まりました。俊夫は、もう誰からも相手にされない。存在する事さえ否定される存在として、誰とも会話をしないままで過ごす事を強いられたのです。
ただ、俊夫にとって幸いだったのは、元々水の中の世界で生きるその他大勢の俗物との会話の中に、煩わしさだけを感じ取っていた事でした。
つまり何も気にならない。と言う事実。
それが、くだらない友人達にとっては、さらに感情を逆なでするものであったため、暴力に形を変えるまでには、時間など必要なかったのですが、それさえも、俊夫にとっては、苦痛とは程遠いものでした。
水の外で、ただ一人生きる俊夫にとって、「自分が生きている」と言う事を確かめる術など、痛みを確認するくらいしか残されていなかったのです。
痛い事は、生きている事。痛い事は、存在している事。
くだらない友人達の行為は、皮肉にも、俊夫自身にとって存在を確認する数少ない機会だったのです。
その頃から、俊夫は不思議な事を感じるようになりました。
東の空に少しずつ太陽が昇り始める朝焼けを見るたびに、西の空に沈んでいく太陽の美しさを思い出してしまうのです。それはもう、本当に不思議な感覚で、まるで時間がどこかへ消えていってしまったような、そんな感覚のままに、ただ抱き続けるより他に術などありはしませんでした。